9. 臆病を去れ


◎『臆病を去れ』

(一)臆病は大損
 「臆病」とは、何かにつけて怖(お)じおそれる事であります。「気おくれ」のするのも臆病です。「考え過ぎ」、「思い過ぎ」も一つの臆病です。
 これは多少誰も持っている悪い癖と申しますか、悪い病気、-一つの「心の病」であります。
 これあるがために、 人間一生、どのくらい損をしている事か、どのくらい苦しんでいる事か、考えて見れば、質にバカらしい事でもあり、おそろしい事でもあります。
 そして、もったいなくも御心(みこころ)をいためまつりて、生々の大道の趣旨にそむく事、大なるものがあります。
 それ故に、教祖神が、きっぱり「臆病を去れ」とおいましめになったのであります。

(二)眼と耳の臆病
 臆病にも多くの種類があり、その起こる原因もいろいろありますが、まず五官、特に耳や目から来る臆病も普遍的であり、かつ根強いものであります。ー深い理由もなく、ただ官覚の刺激から無意識的に来る、これがなかなか取り切れないのです。
 たとえば、雷の音を怖がるというのも一種の臆病ですが、中にはひどいのがあって、無茶苦茶に怖れる人、病的に怖れる人もあります。極端なのになると、雷の音を聞くときまって下痢を起こすという様なのさえあります。
 初めて戦場へ出ると、どんな人でも、銃声砲声を聞いて一種の恐怖感に襲われないものはないと言っていいほどで、無意識的に首を縮めると言いますが、それも慣れると、じき、そんな事がなくなって、それで初めて本当の戦争もできるのです。
-なんでも臆病を去って初めて仕事になるのです
 耳の作用もいろいろ臆病を起こさしめるが、一番わるいのは眼でしょう。眼ほど人を臆病にするものはありません。-いや、眼くらい臆病なものはないと言う方が本当かも知れません
 畳とたたみの間の閾(しきい)の上を歩くのは誰でも平気でできるのですが、もし五、六間(911メートル)も高い所に閾ほどの幅の一枚の板がかけられてあるとしたら、これを平気で渡る人は百人に一人もないでしょう
 さらに、何百間と高い断崖絶壁という様な所でしたら、かけ渡された板の幅が、閾の十倍も広くても、足がビリビリ震うて渡れる事ではありませぬ。それは下の谷間の恐ろしさを見る眼の臆病がさすわざなのです
 これは一例にすぎません。もっと日常よくある事では、豪奢を尽くした堂々たる応接間の有様に臆病を起こすものもあります
 初対面の人の、容貌魁偉(ようぼうかいい)といった風の堂々たる風采に呑まれてしまい、威圧されてしまって、言うべき事も言えないという様なこともありましょう。これ皆、眼の臆病です

(三)不慣れから来る臆
 すべてて慣れない事、初めての事には臆病が起ります。
どうなる?- いい具合にいくか?……という思惑がさせる臆病です
 初めて演説などする人が、声がふるえたり、あるいはは眼がかすんで聴衆の顔が見えなくなるという様な事も、よく聞く事です。つまり不慣れのところから心配し、心配のために臆病が起るのですが、それでは本当の話ができようはずはありません
 この一例によっても、いかに臆病といふものがよくないかといふ事はわかります
 たいていの場合、何事でも、慣れてくる。いわゆる場数をふむと、臆病が取れるのですが、心の底から臆病が取れ切っていないので、またほかの事には臆病が生じます
  漁夫(りょうし)さんや船頭さんが荒波の上を小舟で乗り切る時には、大胆不敵ともみえますが、険しい山のぼりをさしたら、高い崖の上に立っては足がびくびくし、千尋(せんじん)の谷間を覗いては気絶するほど驚くでしょう
 それと同じで、猿の如く身軽に、平気にに山から山へと伝い回る山稼ぎの豪の者も、一たび慣れぬ海上で、ぐらぐらする小舟に乗したら、とんと相場はないでしょう。
 いつ、いかなる場合でも、どんな変わった仕事、初めての事でも、いつも同じように平気なのでなければ、真に臆病のない人とは言われませぬが、それはなかなか、むつかしい事です
 そこに、物事に慣れるという以上に、根本的に、心を養う宗教的修養必要なのです

(四)恐怖症と自己暗
 臆病がだんだん病的になると、いわゆる「恐怖症」となります。そうなると、もう立派な一種の「病気」です
 人前で顔が赤くなるという事は、誰にもありがちな事ですが、それを心配し過ぎて、「赤面恐怖症」になったら、もう駄目です。全く、始末に困ります
 あらゆる病気も、病気そのものよりは、それに対する恐怖症が一番わるいのです。「結核」自身よりも「結核恐怖症」が恐ろしいとは、経験ある医師の言ですが、教祖神も明らか
「病気は命を取らぬが臆病がいのちを取る」
と仰せになりました
 ーいよいよいけないものは「臆病」です。
 で、その恐怖のよって起こるところは「結核は不治なり」という、医師の言、あるいは学説からの、または自己の親しく見た数個の実例から来る自然の「暗示」です
 催眠術においては、被術者に術者の暗示の通りになります。冷めたい火箸でも「そら、焼け火箸!!」と言って額にあてられると、「熱いっ!!」と叫んで飛び上がる。-「もう動けない!」と言って膝を軽くおさえると、それなりに、どんなにもがいても椅子から立ちあがれぬ。-これが催眠術の暗示です。ちょうどそれと同じ様な「暗示」を、聞くところ、見るところから受けるのです
 病気以外においても、だいたい臆病は、暗示的作用から醸成されるのです。-それも、他からの暗示もあるが、自己暗示が多いのです。ー誠に愚かな事であります

(五)「思い過ぎ」-「考え過ぎ
 「思い過ぎ」、「考え過ぎ」からも臆病が起こります。-これは神経質の人、聡明な人に多くある事で
 あまりに細かく考え過ぎ、さきのさまで思いを馳せ、万一失敗した時のみじめさを極端にわるく想像する、-これが神経質の人、聡明な人にありがちで、そこから一種の臆病が起こるのです
 北条時宗は、頼山陽が「相模太郎胆(たん)甕の如し」と、その大胆さを褒めたほどの英雄漢でしたが、 初めは聡明と神経質が累をなして、ずいぶんと臆病なところかあったのです
 で、その怯懦(きょうだ)について、これを脱却するの教えを無学祖元禅師に乞うた時、禅師が「時宗の怯弱(きょうじゃく)は時宗より来たる」と喝破したのは有名な話ですが、実際、時宗その人の臆病は、 時宗自身の身を思い、名誉を思ひ、いろいろ思い過ぎるところから来たのです
  かくて、その端的の一語に時宗は「怯懦の来処(らいしょ)」を閉じるを得て、豪胆無類の英雄漢となり得たのでした
 我が教祖神は、この種の臆病に対して
 「大事ぞと思ふ思(おもひ)も迷(まよひ)なり皆打ちはらひ何も無き身は
 「迷より大事と思う心出で迷を去れば大事なきなり
と、御ねんごろに御教えになり、大事を取り過ぎる弊をおいましめになりました

(六)「事上磨錬
 臆病の愚かな事であり、つまらぬバカらしいものであり、しかもおそろしい事でもあるのは、今さら、あらためて言うまでもなく、皆、よく知っておる事です
 肝要な事は、その臆病を去る方法です
 それにもいろとありましょう
 第一には、おそろしい事、危険な事、-臆病の起こる事物に慣れる事です。このことについては既に一言しましたが、とにかく危険を避けず、逃避せずして、これに直面し、これを敢行して、遂にその恐怖を克服する事です
  王陽明が「事上磨錬(じじょうまれん)」と言ったのもつまりそれです。単に学問や思考の上からでなくて、事実の 上に、実際の上に、その事その事について、錬磨するのです
 それも、前に言った様な、海上に慣れても山上には怖いというのではいけませぬ。事実の根底において、危険困難の必ずしも恐るに足らざるゆえんを十分につかまえなけねばなりませぬ。その点を十分に達観し来るのでなければなりませぬ
 「事上磨錬」の真義は、そこにある。-西郷南洲が「幾度か辛酸を歴(へ)て志始めて堅し」と言ったのは、まさしくそれであります。
 しかし、この法は、本来、人にすぐれた非凡な人、すなわち偉人向きで、一般人向きではない嫌いがあります。

(七)親神様に抱かれる
 そこで、新二の純宗教的の力によらなければならぬ事となります。神様は、一切を御支配なさる神さまであります。全知全能してあらせられます。しかも大愛、仁慈、丸生かしの神さまであります。天地万物の親なる神さま、実に我らの「親神様」であります
 ですから、神さまのなさるところに間違いはありません、「誠」そのものであります。-何もかも安心してお任せすべきであります
 どこまでも我らを愛し慈しみ給い、生かし給う親様であります。悪い事をお仕向けになるはずはありません。もし悪い様に思われる事がありますとも、それは慈愛のこもる御試練であります。御修行をお与えになるのであります
 こちらが悪い事をしない以上、いたずらに悪い事をおあてがいになる事はあませぬ。こちらから背かぬ以上、お見捨てになる事はありませぬ

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