◎『難あり有難し』
(一)天言の妙
我が教祖様のお言葉は、まことに一部天言の妙趣が具わっていますので、たいへんやさしい中にまた、ずいぶんむつかしい難解な語があります。
その第一にここに掲げまするのは「難あり有りがたし」 という言葉であります。
これは、元来「難有(なんあり)」と書いて、手紙の文などに漢文風に返って読んで、「有り難し」申しますところから、お思いつきになったものと思われます。
洒落といってはおそれ入りますが、そこには、おのずからユーモラスなところもあると思うと、一種なごやかなありがたさも感じられます。
(三)災難への感謝とその克服
まあ、それはどちらでもいいのですが、このお言葉の平面的(?)の意味―大難が小難で済んで... まあありがたいとせねばならぬくらいに、消極的にあきらめる。―は至極みやすい、わかりやすいものですが、その立体的(?)の意義は、なかなか把握しがたいものがあります。
何か難を受ける、世間の所謂、災難を受けたという時に嘆き悲しむのが普通で、それは人情の自然して咎(とが)むべからざる事でもありますが、それでは何らお道的でない、せっかく平素信仰をしておる詮(かい)がない、その難を難とせず、難と思わずに、反対にこれを「ありがたい」と思う、「ありがたい」と感ずる。そして心から感謝する、神様に感謝を捧げる。
―かくて、生々と元気な、いさましい心を以って、その難によって尊い修行をし、おのずからまたその難に打ち克つ。
―これが「難あり有りがたし」という御教語の立体的の意義というべきものです。
(四)「難を難と思わぬ」が修行
御書簡にー<95号>ー
「元来此世に生れ来るを能々考へ候へば、皆かたちは難あるが形の持まへ也。併し我が執業(修行)は難をなんと思はぬが我がしゆぎやう也。さすれば苦になる事なし、苦にならぬ時はあとは楽しみばかり也。左様なる心は道より外になし、夫故道に心住むときは大安楽也。いはずして心一つにて楽しみは勝手次第也。」
とあります。
その「難をなんと思はぬ」修行が、この御教語の実践でありきます。―そして、その結果は「さすれば苦になる事なし」となりまして、「楽しみばかり」の心境に住む事となるのであります。
(五)御大難と御道の体得
尚、他の御書簡に―<46号>―
「......善悪共に天命とおもひ候へば少しも苦になること御座なく候。我れと求めさへ仕らず候へば、悪しきと思ふこともみな善事(よきこと)と相成候。少子も三十年已前の大難が、今此の幸ひと相成候間、難さへ難有(ありがたき)に相成候……」
とお認(したた)めになっています。
この御書簡を拝誦しますれば、一層意味は明かになります。
このお手紙は、天保十四年、六十四歳の御時のものであります。すなわち「三十年已前の大難」とは 肺の病にて今日を限りとならせ給うた、その御病難の御事であります。
その瀕死の病気があったらこそ、御大難があったらこそ、―御神徳のありがたき事が御心に徹底し、かくて、やんごとなき天命の直受となり、やがて、大道の悟得となり、今や(お手をお書き になったその当時)身も心も天地一体の大丈夫さ、強さ、尊さを以って、大道の中心に立ってこれを世人に説き示し、世を救い、人を助けておいでになるので、ー真に「三十年已前の大難が今この幸ひと相成候」であります。……ご自身つくづく、そう感じられたのです。
ここに「難さえ難有(ありがたき)に相成候」と宣言する所以があります。
(六) 体験より出でし確信の言
更に、天保十一年度の御書簡にはー<111号>-
「難有(ありがたき)事は色々と相成り、大難と存居申候事も天命に相任せ候へば跡は難有(ありがたき)事に相成候事段々御座候。これを相考へ申候へば、難ありが難有(ありがたき)にで御座候。誠に一から万まで皆天命と存じ奉り候。……」
とあり、いよいよ「難あり有がたし」の御教語が、ここにそのまま記されておる次第であります。
そして、このお手紙にても明らかな如く、それは「色々」事を経て、「段々」と御実験遊ばされ、 御体得に相成っての上のお言葉で、決して、決して机上の観念論ではないのであります。
(七) 的確簡勁なる一句
「艱難汝を玉にす」とか、「天の大任を是の人に降さんとするや、先ず其の心志を苦しめ、その筋骨を労し……」とか、古人もほぼ同じ様な事を申してはおりますが、積極的に、一語強く、ズバリと
「難あり有り難し」
と喝破された言葉は他にありません。そこに、この御教語の一層尊いところがある次第です。
で、何より肝要な事は、かかる一般常識に反した事が、何故然く、面も強く言い切り得るかという事です。
勿論、それは、ただいまも申した様に体験から来る事ではありますが、同時に、その根底に横たわる、動かすべからざる道理、真理、もっと適切に言いますれば、疑うべからざる確然たる「神理」があるからなのです。
(八)ありがたき親心
天地は「誠」の世界です。所謂(いわゆる)全知全能の神の完全に治(し)ろしめすところです。―もっと適切に申せば、畏ながら「天照す神の御腹の中」です。その中に於て無意義な「悪」のあろうはずはありません。
今、「凶」と見え、「悪」と感ぜられる事も、必ず「吉」なり「善」なりの動機となるべきものでなけれねばなりません。
少なくとも、吉事、善事を反映し、促進する所以(ゆえん)のものであるべきです。
神様は、一切を御承知になって居り、そして、一切を心のままに御主宰なされ、御支配なさる御方です。面も我々の親なる神様です。天地万物の親神様であらせられます。
―その神様が、故なくして、いたずらに我らをお苦しめになるはずがありません。
「生かしたい助けたいのが親心
悟りて生きよ世の中の人」
その「親心」の神様が、可愛い子供を、どうして、無意義にお苦しめになりましょう!
災難とか、病苦とか、それらのものが、ー自らわざと求めずに、何ら悪い事をせずして、―やって来るならば、それはきっと深き思し召しから来る、尊き御摂理で、何かの御修行であります。ー我らの人格形成のための、何より必要な、何より尊き修行であります。
「善」を内に蔵した「悪」、「吉」を孕んだ「凶」であります。ー災難の剛(こわ)き刺(とげ)ある毛毬(いが)の中には、甘い栄養に富んだ栗の実が包まれています。荒い粗悪な石を割って見れば、内に燦たる宝玉が秘められ てます。
ーそれは、間違いのない事ですが、これに対する堅い固い信念があって、初めて「難あり有りがたし」の意義を十分につかむことができます。
(九)涙の洗礼
一旦「涙」の洗礼を受けて来ない「笑」は、浅薄な、不真面目な、下品な笑いになり勝です。
一旦生死の岸頭に立って来なければ胆は据わりません。―不動心は養えません。
衆人環視の中に大失敗を演じて天下の物笑いとなる、―それほどつらい苦しい事はありませんが、それすら大きなたまものを持ち来たします。その苦悩の中から復び生き来った人にして初めてよく成敗と栄辱とを度外した大きな仕事もできます。―生涯ただ小心翼翼、絶えずおびおびとして「失敗」のない様にとのみ懸念する、それも結構ですが、それでは生きた仕事もできますまい。いや、決して「失敗」がいいとは申しませんが、「失敗」は「成功」の基ともいいます。「失敗」にすらいいところはついているものです。
貧苦のドン底に呻吟すること、三年、五年、十年、―その煉獄の中に英気を養い来ってこそ、初めて「無一物中無尽蔵」の道味に徹することができましょう。
病苦の苦しさも、苦しい苦しいどうにもならない、苦しみの絶頂に立ったとき、初めて能く、「オノレッ!!」と大喝して、病魔を喝散せしめる痛快味を快喫する事ができましょう。
(十)道の極意
「身も我も心もすてて天地の
たつた一つの誠ばかりに」
という尊いお歌がありますが、「身も我れも心も捨て」るという様なことは、中々平凡な日常に於て、その妙味を味わう事はできません、況(いわ)んやこれを身に対する事に於いてをやです。―これには、相当はげしい修行が必要です。
貧苦、病苦、死苦、失敗の苦、屈辱の苦、―これら一切の忌むべく、悲しむべく、はた恐るべき苦悩苦患も、それに由って「身も我も心も捨てて」という境地に達し、いよいよ「天地のたった一つの誠ばかりに」止まり得るに到るならば、安い代償であったと喜ばねばならぬでしょう!!
強いて難を迎えるにも及びませんが、せっかく来た「難」を早く逃れたいと焦慮(あせ)ってはなりません。できるだけゆっくりこれを楽しまねばなりません。―といってわるければ、せっかくそれによって十分修行せねばなりません。
ところが、不思議なもので、そういう心構えで居ると、「難」の方で、こんなはずではなかったとばかりに早々引きあげて帰ってしまいます。
イヤどうも驚くべき高遠な意義を持つ一句。
「難あり有りがたし」!!
もし、口さきばかりでなく、真に心から、この語が悟り切れたならば、味わい得られたならば、其の人は、もはや道の極意を得た人というべきであります。

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