13 . 邪陽に泥むな

 御教語謹解

13

◎『邪陽に泥むな』

(一)正陽と邪陽

 ここに「邪陽に泥(なず)むな」という御教語について、ひとわたり解説を試みたいと思います。

 まず「泥む」という語は、辞書には「渋滞」-滞り渋る、または「拘泥」することと解してあります。漢字で「泥」という字をあてるのは、多分泥の仲にふみこんだ足のぬけにくいように、どうも離れがたく、脱出(ぬけいで)がたき意を取って、そうなったものと思います。

 さて「邪陽」とは、何を意味しますか?-「邪」はもとより「正」に対するの語でありますから、「邪陽」とは「正陽」の反対であります。

 で、以前の解釈に「正陽」は「日の神」のことにて、すなわち「本教に尊信する大神」-「邪陽」は「心迷う時に信ずる依頼神」のことと説き、また「流行り神の神憑り……」などのことと言ってあるようですが、ーそう説けないこともなく、それも面白い解釈でありますが、ー私どもは、やはり正しい真の陽気、すなわち正陽に対する、間違った、似て非なる陽気、これが「邪陽」だと思います。

 心が真にありがたいものに満ちて、それで元気に、勇ましく、陽気であるのは、それは「正陽」でありますが、あるいは酒に酔うたり、あるいは淫楽にふけったりして、一時陽気-似て非なる陽気-になるのは「邪陽」であります。


(二)陰気は神の忌み給う所

 「陽気」のことを申せば、自然「陰気」のことを言わねばなりませぬ。ー

 「陰気」は、教祖神の最もお嫌いになったことであります。そして、信心の禁物とされたことであります。

「天照御神(あまてるおんかみ)への御信心は少しも少しも陰気嫌ひなり」ー(141号)-

と仰せられてあります。

 けだし、おそれながら、日の神様は、実に「陽」の神様であります。天地大陽の気の根源にてまします御神さまであります。-さきに、先輩の解釈に「正陽」とは「日の神」のこととあると申しましたが、そういう解説のあるのも当然であります。

-少なくも「正陽」は、日の神様にその根源を発するものであります。

 ですから、陽の神さま、正陽の神さまと仰ぐ、日の神さまが、その正反対の「陰気」をお嫌いになるのは、当然のことであります。

 誠に「面白きが大神の御心」であります。そのたのしく、おもしろく、陽気な御心に背いては、それは何よりの不吉にて、一切不祥事の根本、-実にも「陰気つよる時は穢(けがれ)なり」で、陰気はなによりの穢れであります。

 そこで、-

 「たとへ何程道を守り候とも心陰気に相成り候はば出世相成り申し難く候…」

 「とかく御陰気が御運の邪魔と相成り申すべくと存じ奉り候」-(87号)-

との痛切懇切なる御教訓ともなった次第であります。

 

(三)離れがたき陰気

 陰気のよくないことは、くどくど申すまでもなく、誰でも知っています。ー知っているだけでなく、誰でも心からこれを嫌うのであります。ー大御神様が、お嫌いでありますから、御分心をいただいている我々も自然に、本能的に嫌うのであります。嫌いなのであります。

 が、いかんせん、知りつつも嫌いにつつも、とかく陰気になりがちなのであります。

 そこで、いかにすれば、陰気が離れられるか、陽気になれるか、これが肝要な問題で、人みなそれぞれに多少たりとも工夫をこらしておるのであります。で、陽気になる、正しき順当なる方法は、御神徳のありがたいことを十分に知って、念々刻々感謝に生きることです。-これが根本的の方法であります、第一義であります。同時に形体(かたち)の上からは、怠らず御陽気を吸うて、下腹におさめ、天地と共に気を養うところをつとめるのであります。

 それで、間違いなしに陽気になれます。ーが、言うに易く、行うは難しで、絶えず、ありがたいありがたいと感謝に生きるということが、第一最も難事(なんじ)であります。難中の難であります。形の御陽気の修行はそれに比べれば易いことですが、それすらなかなか怠りがちとなって根気が続かないのであります。

 そこで、結局いつまでたっても、悪いと十分に知っている陰気、自分でも嫌いな陰気が、とれない、はなれられないのです。

そこで、便法(べんほう)が考えられます。ごまかしの、インチキな方法が行われます。


(四)ゴマカシの陽気

 それは種々の道楽にふけることです。-道楽にふけって、その快楽から心を陽気にしようというのです。根本から陽気にならなくても、せめてそうしている間、その道楽を現に楽しみつつある間だけでも陽気になろう、陽気を味わうというのです。

  なるほど、それでちょっと陽気にはなれる。本当の陽気ではない、「正陽」ではないが、やや似たもの、いわゆる似て非なる一種の陽気な気分になれる。それがすなわち「邪陽」です。-

(道楽にもいい種類のものもありますから、ー「それがすなわち邪陽」と言ってしまっては、少しいけないかも知れませぬ。「とかくそれが邪陽になりがちなのです」と和らげておきましょう)

 本当の陽気でなくても、たとえ一時的にせよ、陰気を払って陽気になったその味わいは、とても忘れがたきものがある。そこで、だんだんと道楽のその楽しみを繰り返して、後にはそれなくては生きられぬほどになってしまう。あたかも泥田の中に足をふみこんで、もがけばもがくほどぬかりこんで、ついに抜け出ることができないようなことになってしまいます。それが泥むということです。

 「邪陽に泥むな」!!

 深く味わうべき訓言です。


(五)道楽の真義

 元来「道楽」とは「道の楽しみ」ということで、その文字本来の意義通り、真に「道」を楽しめば、真に陽気にも成れ、天地と共に尽きざるの楽しみを楽しむことができるのですが、そこがつとまらぬから、その真の「道の楽しみ」なるものに似た、―似て非なる楽しみを、道ならぬ「道」、即ち間違った方法で楽しもうということになるのです。

 これが、世間に言う所の「道楽」なるものです。―甚だしきは「打つ・飲む・買う」の三道楽などと言います。定めし「道楽」という文字が泣いていることと思います。

 が、文字の意義はそれとしておりて、人間は一時の愉快一時の陽気を味わうために、種々の道楽を考え出しました、案出しました。実に種々無量の道楽があるのです。中には高尚なものもあり、偶には真の道を修める補助となるようなものもありますが、多くは弊害を伴うものです。イヤ、元来が似而非(にせ)ものであり、ゴマカシであり、インチキでありますから、「弊害を伴う」くらいでなく、実に「弊害」そのもの、「害毒」そのものというようなのが多いのです。


(六)「三道楽」

 さきにあげた「三道楽」は世間周知のもので、悪道楽の代表的なものとされているのであります。そのうちの「打つ」は「博打を打つ」こと、「飲む」は「酒を飲む」こと、「買う」は「淫を買う」ことでありますが―この三つは、昔からどこの国でも広く行われ来った道楽です。その弊害はみんな知っておる、それをやる本人が一番よく知っている。しかも知りつつもやめられぬのです。深く泥んだ悪趣味、悪道楽からどうしても脱し得ないのです。

 かくて、弊害百出、大いに社会の風紀を害しますから、その中の一つの「打つ」方は、法律で禁止されることになったのです。今一つの「買う」という方も、大いに法律上制限され、だんたんと禁止という方に進みつつあります。残る一つの「飲む」方は、他の二つにくらべると弊害も少なく、飲みようによっては、ややお上品にも飲めるという所もあって、まあまあと一般に行われている次第です。

 しかし、これも、文明国なら、どこの国でも禁酒運動は相当盛んです。


(七)酒の弊害

 酒を飲むと陽気になる。そこに酒の魅力があるのです。―そして「泥む」弊が生じます。

 が、その陽気は、どうも真の陽気とは言えません。ですから、ともすれば、粗暴になって、蛮勇を揮ったりすることにもなるのです。―それに飲んでいる間だけの陽気で、さめればすぐ消えてしまう、むしろ反動的に憂鬱にさえなります。―いわんや、健康にも財的にも打撃を受けると、救い難き憂愁が襲ってきます。

 が、とにかく、酒は人を陽気にする。その陽気を人は求めるのです。……

 しかし、結局それで真の陽気にはなれない、としますれば、他に何等の弊害なくして、一時的でない、ゴマカシでない、真の陽気を得る方法があるなら、それを実修すべきでしょう。

 万物の霊長を誇る人間、なかんづく、お道人(みちびと)をもって任ずるものが、酒の力を借らなければ、陽気になれぬとは、不甲斐ないことではありませんか!?

 先年、豪酒家の巡査さんが、初めてお道の御説教を聴いて、翻然として禁酒を断行した時の歌があります。

「酒を飲む楽しみよりは天地を呑む楽しみに若(し)くものはなし」

 「御陽気をいただいて下腹におさめ、天地と共に気を養い……」

と、教祖神はみ教えになりました。―大天地を呑吐(とんと)するというのが、道人(みちびと)の陽剛(ようごう)の意気精神です。そこへ行けば、「憂いの玉箒(たまほうき)」などと言って酒の力を借らなくとも、もはや少しの憂いもなく、少しの陰気もなく、天地と主に生き通す所もつとまるのです。―御道の歌に、

「煙草より酒よりうまき御陽気を

吸うて吸いきれ味の出るまで」

というのがあります。

 だたで、害がなくて、いつでものめて、そして、心も体もだんたんと強くなって、真の陽気が養える、御陽気の修行こそ、何より望ましきことであります。

 -これは少しの努力で、すぐ効果が見えてきます。だんたんと続けてゆけば、初めに申しました、念々刻々に感謝に生きるという心境も拓けてきます。―そして、いよいよ真の「陽気」になり切ることができます。


(八)物に寄らぬ楽しみ

 酒のことばかりかれこれ言うのではありません、決してそれが主意ではありませぬ。―ただ誰にもわかり易い一例を挙げたばかりです。

 すべてのよくない道楽に泥まないようにつとめなければなりませむ。―何事にも泥んではなりませぬ。いわんやよくない事においてをやです。

 陰気はいけない。―陽気にならなければならぬ。―だか「邪陽」はいけない。―真の陽気でなければならぬ、「正陽」でなければならぬ。……

 右の二節で、御教語の御趣旨は尽きていると思います。

 さらに、御書簡に

 「小子近頃の執行口は、何事へも兎角物に寄らず楽む所を相務め申候。……」(三三九号)

とあります。

 何事にも、何物にも寄らずかたよらず、ーはた、その事物に依らず。たよらず、その力を借らずして、しかも十分に楽しんでゆく。……

 ここに、物に泥まざるの極致があります。―ここに、何物にも泥まなずしてしかも楽しむ、深く大いに天地人生を楽しみ、事々物々(じじぶつぶつ)を楽しむ、そして、真に朗らかに、陽気になって、ー「邪陽」ならぬ「正陽」を養うことについての、いとも尊き教訓が示されてあります。


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