10. 誠を取外すな



『誠を取外すな』

(一)一切の基礎
 「試を取外すな」ーという御教語は、いわゆる「教えの五事」の第一に、また「道之栞三十ヶ条」の新 一に出ておるお言葉でありまして、教祖神の全ての教訓の前提となり、基礎となっているのであ ります。
「誠を取外さぬは、人が人に成るの道」とも仰せられたという事であります。-他のあらゆる修行は、そこからであります。まず誠を十分に守って、それから他の修行へと進むべきであります。
 誠が第一となり、基礎となって初めて他の等の事柄も十分に勤まります。-根底に「誠」を欠いては何事も駄目であります。
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(二)「まことは」は「真事」
しからば、「まこと」とは何ぞや、という事になりますが、それはなかなか、むつかしい問題で、ここに簡単に言い尽くす事はできませぬが、ごくざっと申しますと、昔から「まこと」とは「真事」 なりと解釈されてをります。中国人のいわゆる「真実無妄」であります。
 少しの間違いもなく、きちんときまりきって千古、万古ゆるぎなく、正しき道理がそのまま行われ ているのが天地の実相であります。これが「天の誠」であります。
 古人はそのところを「誠は天の道なり」と申しました。
 で、我々人間も、素(もと)より天地の子として天地の間に住み-天徳をいただいた一人の一部であり、一分子であります。誠であり、誠でなければならぬのは当然でありますが、特別の天寵で「自由 の意思」を与えられ、いささか「自由」を賦与されていますところからして、その「自由」を乱用し、折角の天寵をみだりにして、間違った事をしがちなのです。更もすれば「誠」にはずれるのです。-「誠」の反対の「偽り」ー虚偽、虚飾、これ事とし、妄言妄慮(ぼうねんぼうりょ)、これ専らとするのです。
 そこで、人は注意し、反省し、警戒し、努力して本来の「誠」に立ちかえらねばなりません。
 そのところを、古人が「之を誠にするは人の道なり」と申しておるのです。
ー「誠は天の道なり、之を誠にするは人の道なり」 -質に味わうべき語です。

(三)「まこと」は「まること」
 「真事」といい「真実無妄」という-これは「誠」の本来の意義であり、昔から広く行われ来たった解説で、いわば「誠」の通義、通説ですから、教祖神の御教えの「誠」も、それに相違はありませぬが、更に一段その意義を高め、深め、大きくされまして、「まこと」は「まること」なりと仰せられました。-「まること」の「る」のはぶかれたのが、「まこと」という言葉であるとのお示しであります。
 「まること」とは、「まるいこと」であります。「円満」です「円満無(えんまんむげ)」です。丸くまるくして、少しのさしさわりもなく、中に一切を包み容れる大きな徳です。
 「まること」には、また「生々無窮」の意義があります。まるいものは行き詰まりがありませぬ、無限に永遠に転して窮りなき点があります。すなわち「生き通し」です「限りは御座なく」です。
 円いのが天地そのものの自然の道です。天地間のありとあらゆる物の、自然の相(すがた)は、大は天体より、小は原子、電子の微粒子に至るまで、みな円いのです。地上幾多の物の相も、みなおのずからに円みを持っているのです。人間ももちろん、そうです。頭から、首から、胴体から、手足から、手足の指に至るまで、ことごとく円みを帯びざるはなしです。いずれも曲線美を発揮しています。
 天地万物の、外なる相の円いとともに、その内なる心の姿も、本来、円いのです。円満の徳を具えておるのです。いや、本体の心が円いから、その円満の徳が外に顕れて、天地万物の姿が円いのです。-
 「まことはまることなり」-これは、孔子も知らず、子思(しし)も知らず、孟子も知らず、宋儒(そうじゅ)も陽明学徒もみな知らなかったところの、驚くべき卓見であり、偉大なる創見(そうけん)であります。

(四)天地自然の徳
 「天の道」であり、「天の徳」であり、天地万物の「自然の姿」であり、遡っては天地の「本体」であり、それによって万物が生まれ、万物が育てられ、一切が支障なく行われ、古(いしにえ)となく、今とな く日となく夜(よ)となく、物という物、事という事に行き渡って遍(あまねく)く行われている「まこと」です。それを取り外してならぬ事は申すまでもありませぬ。
 万物みな「まこと」によって動いているのに、人間のみが、-格別の恩寵によって与えられた自由 と、それから起こるわがままのために、その「まこと」を取り外すとい事があってはなりませぬ。
 ですから、まことを取り外さぬという事が道徳、宗教のすべての根底となるのであります。一切の 修養修行の基礎となるのであります。
 同時に、その事がつとまれば、そこからして、他の事は着々と進んでまいります。行われて行きます。
 「誠を取り外すな」-これは、「教えの五事」の第一におかれ、「三十ヶ条」の第一に据えられてあり、実に諸徳諸行の根幹となり、一切の善事吉祥の基本となる個条(かじょう)であります。

(五)「誠」第一
 「天地の誠の中に生れ来て
     誠を知らぬ人の憐れさ」
 全く根本を忘れてしまっている人ほど、知らぬ人ほど、憐れむべきものはありますまい。
 「井のはたに遊ぶ子よりも危きは誠を知らぬ人の身の上」
  ふちなし井戸の側(そば)で遊ぶ幼児よりも危きは、「誠」を知らぬ人です。-「その危険さはじっと見ておれぬところです。今にすぐに危難に陥ります。
 「誠よりほかにたよりはなきものを有無と生死に迷ふあはれさ」
 根本の「誠」を捨てて、何よりたよるべき「誠」を忘れて、有るとか無いとか、生きるとか死ぬるとかの末に走って迷うているとは、さてもあわれなるかなとの意です。
 どうしても「誠」をつとめねばなりますぬ。-「誠を取り外すな」を根本の大訓として守り通さねばなりませぬ。
 かくて、いつも誠を取り外さぬという、その大磐石の基礎の上に立って、有りがたく「天に任す」 ならば、自然と離れがたき「我を離れる」事ができて、そこで絶えず「陽気に成る」場がつとまり、その修行の満つる所、天地生々の霊機に参じ、いわゆる「天地の活きものを捉まえ」て自由自在の活き業をなし得るにいたるのであります。
 それが、「誠を取り外すな」、「天に任せよ」、「我を離れよ」、「陽気に成れ」、「活きものを捉まえよ」という「教えの五事」の順序だと聞きます。

(六)「誠一つで四海兄弟」
 絶えず「誠を取外さぬ」様にし、常に誠をつとめて、誠が満ちてきますると、そこから、いろいろとよき事が生じてまいります。
「誠から祈れば神はあらたなり
    神の心で神を祈れば」
 「誠」を以てするが本当の祈りであり、その祈りにして初めてあらたかな御神徳をいただかれます。
 「是れ其人々の誠の処より、天地の誠のいきものをよび出すと存じ奉り候」ー(五号)
 人の誠は、天地の誠に通じてこれを喚起し、そこに不思議のみかげは顕れるのです。
「誠もて神を慕へば神もまた
    慕ひますなり人の誠を」
 神人契応(しんじんかいおう)も「誠」一つです。かくて「誠」の徳の極地は、
「誠には剣もたたず矢も立たず
         火にさへ焼けず水におぼれす」
の権威と、奇瑞(きずい)を顕わし来たります。そして、人と人との間は、「まること」の「誠」の徳で、家庭円満、国家安泰はもちろん、進んで「四海兄弟(しかいけいてい)」の大理想を実現するに至ります。
「誠ほど世にありがたきものはなし
    誠一つで四海兄弟」
 かくて、まるいまるい誠の徳で、あらゆる人々が(まる)く円満に、いつまでも限りなく、共存共栄と相栄えて行く事ができます。
き中にき心をもつ人は
    限り知られぬき中なり」
 実(げ)にも-「何もからもまこと一つに相極まり候。」
であります。-誠なるかな、誠なるかな、であります。

(七)むすび
 そこで、教祖神は
「身も我も心もすてて天地のたつた一つの誠ばかりに」
 と、ただただ「誠」のところを御修行になり、石尾先生は
「誠のみ跡にのこして身も我もみな水無月の祓ひ清めん」
 と、「誠」一つを残すべく祓いに徹せられました。
「天照らす神に供えて憚りのなきは誠の一つなりけり」
という歌もあります。ーその尊き「誠」を養うて、真乎(しんこ)に誠の道の道人として立派なところをつとめ、 万物の霊長たる人間の真価を十分に発揮し、かつ個人の上にも、家庭の上にもはた国家社会にも、 進んでは世界人類の上にも、誠による尊きみかげをいただいてまいりたいものであります。

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