7. 陽気に成れ


『陽気に成れ』

(一)陽気と陰気
 天性、なんとなく陽気な人があります。反対にどうも陰気な人があります。
 陽気な人は得です。陰気な人は損です。-陽気な人は、他の人がこれを好きます、陰気な人をば誰でも嫌います。
 人間の社会は、多くの人の集合してできているものですから、人に好かれなければ仕事はできません。生きた仕事はできません、大きな仕事は決してできません。
 いや、別に大きな仕事でなくても、役人になつても、商売をしても、何をしても、やっぱり陽気、 快活でなければ、成功しませぬ。
 今は人に好かれる、嫌われる事にて申したのですが、それはそれとして、第一仕事をするのに、陽気の人は、テキパキと元気に、活発に、サラサラと滞りなくやってのけますのに引きかえ、陰気の人は、とかくクヨクヨと考え込んで、因循でグズグズと物事のはかどらぬ事おびただしくーどうもそれでは仕事になりませぬ。
 それに、何事も、陽気な人は、積極的で、グングン押し進めていきますが、陰気な人は、引っ 込み思案で、何かにつけ消極的で、ジメジメと滅入る様な態度を取りますから、大いに発展する見込みはありませぬ。
 教祖神のお手紙の中に、
  「たとへ何程道を守り候とも、心陰気に相成候はば、出世相成申し難く候、何卒春の気に相成候うて、御修行成さるべく候」
とあります。-「春の気」は、すなわち陽春の気で、はればれしく、ほからかな、洋々と楽しみにみちたる陽気の事であります。
 どうも陰気では「出世相成申し難く候」です、天性はともかく、人は努めて陽気にならねばなりませぬ。

(二)出世の秘訣
 道徳を守ってわるい事はせぬ、そして、神信心の心もあるという様な人は、感心すべき人ではあるが、それでも心が陰気であっては決して出世は出来ません。ー
 それは、万物の霊長者としての堂々たる人間の態度に欠くるところがある、生々発展の大道の道意に副わない点がある。そこで人間としての本当の正しい生活にならず、従って立身出世も出来ぬ。春の様な気になってこそ、真の道も修まり、出世もできるとの御諭しは、よくよく味わうべきで ありす。
 心は親神さまの御分心でありますから、たとへ、悪い事はしなくとも、常に陰気で、お心さまを 暗い所に押し込めまつる様な事をしては、天地の親さまの、御心をいためまつる事になるから、そこに大きな罪、天地の親さまへの大不孝の罪を犯すことになります。これを「善人の罪」と申すのであります。
 それでは、何事も順調に行かず、出世できぬのも当然でありましょう。
 出世開運の要訣(ようけつ)は「陽気」の一事にあるのです。-どんな事があっても、じっと心を下腹におち つけて、憂えず悲しまず、おそれずさわがず、陽気を丹田に収めておりますれば、自然と運が開け来たって、やがて出世の時機が到来いたします。
 「何事も天命に御任せ、兎角下腹に御心をしづめ、即ち雷復(らいふく)の如くに、陽気自然と発し候様に成され候へば、開運成されずと申候事御座なく候」(90)
との御諭しは、今言ったところを端的にお示しになったのであります。
 「雷復」とは、易の「地雷復」の卦の事で、強い陽気ー陽の一爻(いっこう)が、一番下、すなわち人体ならば、下腹の所にじっとおさまっている形です。

(三)秀吉と光秀
 先に、陽気でなければ生きた人が仕事はできぬと申しましたが、天性極めて陽気で、そして日本一の英雄として、日本一出世をした、豊臣秀吉について、深く味わうべき話が伝わっています。
 秀吉がいまだ信長部下の一属将群であった時に、何かちょっとした事で、肝癖つよき信長の怒りに触れて、閉門謹慎を仰せつけられた事がありました。
 その時、秀吉は徒然のまにまに城中の広間で、主だったる家来の者と酒宴を開いて陽気にやっておりしたとの事ですが、ある人がこれを諌めまして、それでは謹慎の意に叶わず、 ますます信長公のお怒りを増すであろうと申しますと、秀吉は「なに、これでいいんだ-この方がいいんだ。もし、謹慎、謹慎と陰気にひそまりかえっておらうものなら、主君の無理な仰せに含むところあって、じっと謀反でもたくらんでおる様に疑われぬとも限らぬ。…… 」と答えたという事ですが、やがて、信長も「どうも仕方のない奴だ」くらいで、笑って閉門を解き、爾来、一層君臣水魚の交わりと言うか、意気投合の趣を加えたという事です。ーそしてトントン拍子に出世して行ったのでした。
 しかるに、同じく信長に仕えた明智光秀、 秀吉などと違って、学問もあり、趣味も深く、何事にも相当の教養あり、戦争につけても智将謀将として、自他共に任じた偉い人物であったのですが、とかく陰気な欠点があったので、闊達(かったつ)な信長と性格相容れず、叱責されれば、-謹慎はいいのですが、あまり陰に閉じこもるという風があって、それが、いよいよ信長の気に逆らい、また疑心をも増さしめて、ますます叱責されるという様なことになり、ついにあのおそろしい謀反を起こすの悲劇を生むに至ったのであります。
-陰気は誠に嫌なおそろしいものです。

(四)「道は満つる也」
 さて、説いてここに到りますと、教祖神の有名な御文章を想起せざるを得ませぬ。
 「道は満つるなり、天照大神(てんしょうだいじん)の御分身のみちかけぬやう遊ばさるべく候、人は陽気ゆるむと陰気つよるなり、いんき勝つ時は穢(けがれ)なり、けがれは気がれにて太陽の気を枯らすなり、其所から種々色々の事出来(しゅったい)するなり。.......」(95)
  この簡単な一文に、一切は尽きておる様に思われます。
 我々のからだの中に、元気陽気が満ちておる所がすなわち「道」なのであります。「道はみつるな り」とは、真に独創的な尊い御教語です。さて、陽気がゆるむと陰気が強(つよ)ってくる。その陰気が勝って陽気元気が枯れるのが「気枯」で、-「きがれ」、すなわち「けがれ」であります。そこから種々色々の不祥事が出てきます。病気も貧乏も、その他のよくない事が、次から次へと発生します。
 太古(むかし)、天照大御神さまが天の岩戸におこもりになりました時には、世の中が真っ暗になったので、天地は陰惨として、定めし陰気に鎖(とざ)された事と思ひますが、その時の記事に、「万(よろづ)の妖(わざはひ)悉(ことごと)に発(おこ)りき」とあります。陰気の「気枯」から「種々 いろいろの事」が「出来(しゅったい)する」のであります。
 その陰気を払ったのが、女神宇受売命の陽気で、高天原のゆり動くまで、八百万神たち共に大笑 する一段となって、遂に大御神様の御出現となったのであります。
 万物の生成する所以は、天地に充溢する太陽の元気によるのであります。その太陽の気がちがすなわち天地の「いきもの」であります。そのいきものを枯らすといふ事は悪魔の所業であります。
  誠に
「天地にたった一つのものを
    けがす人こそ悪魔なりけれ」
 であります。
 それでは不祥事が発生するのも当然です。-実(げ)にも、天地大陽の気を枯らす事は一 不祥事の根元であります。おそるべく慎むべき事であります。

(五)万病の元は陰気
 立身出世の反対の、失敗も貧乏もみな、陰気のせいですが、病気も同様であります。
 「万病と品はかはれど其元は
     唯一色の陰気なりけり」
「陰気だにはらへば病気直るなり
     病気のたねは陰気なりけり」
 いずれも星島先生のお歌ですが、陰気と病気の關係を徹底的に詠み示されています。
 「惑病一源」という事を、原坦山というえらいお坊さんが説いています。「迷い」と「病気」は 畢竟(ひっきょう)一つで、心の迷うから形の病気ともなるというのですが、星島光生のは、「陰気」「病気」の一源一体説ともいうべきものであります。
 そはとにかく、陰気になりますと、手も足もや不活発になります。あらゆる内臓のはたらきも不活発になります。胃腸のはたらきが鈍りますから消化の力が衰えます。消化液の分泌も減りますから、 自然消化がわるくなりますのはあたりまえです。-消化がかわるくなれば、食欲も減少し、栄養もわ るくなります。さすればからだ全体がわるくなります、弱くなります。
そこで、病気に対する抵抗力が弱くなるから、いろいろの病気に犯されがちです。また、心臓の動きが鈍る、静脈静脈の働きもにぶるとなりますと、血液の循環が悪くなります。そこで貧血ともなれ ば、鬱血のわざわいも生じます。そして、一番わるい事には白血球のバイキンを殺す殺菌作用が衰えますから、結核や何かのわるい病気に容易に犯されます。
 まことに「万病と品はかはれどそのもとは唯一色の陰気なりけり」であります。
 それ故に、その陰気を払って陽気になるところに、活発な治癒力がはたらき、「陰気だにはらへば病気はなほるなり、……」となるのであります。

(六)陽気になる二要件
 しからば、いかにして陰気をはらって陽気になるかということ、-これが肝要の問題であります。陰気、陽気も、先天的の性格気質にもよる事であります。また大いに体格体質にもよることはもちろんであります。そして、気候やや天候にも左右されますれば、ちょっとした境遇の変化にも種々影響を受ける事です。
 が、それはそれとして、一つ我々の修養と努力で、陰気に打ち勝って陽気になる工夫が肝心なのであります。そこをつとめなければなりませぬ。
 「陽気になる」第一の途(みち)は「有りがたい」といふ事を十分につかまえる事です。-これは宗教的の
信仰と修養によることですが「有りがたい」と思えばおのずと心が陽気にいさましくなります。こ れが根本であります。
 そして、何事もありがたい、向かうものごと皆ありがたい、-一切がありがたいとなりますれば、体格や体質や、気候や風土や、はたまた境遇いかんに左右される事なく、いつもほがらかに、いつも陽気でおれます。
 それから今一つ肝要な修行は、「御陽気」を十分にいただく事です。天地生々の陽気、一切万物を 生かし給う御神徳そのものである御陽気を深く深く吸い込んで下腹に収め天地と共に-天地と一体となって元気を養ふという事は、形の上から、いや、霊肉一如の何より肝要な「陰気ばらい」の修 行です。「陽気になる」何よりの修行です。
  かくていつも心にありがたさがみち、からだに御陽気が満ちておりますと、陰気は消え去って、 常に陽気で、常に元気で、病気にも打ち勝ち、立身出世して、このありがたき天地の中に、ありがたき御神徳を十二分にいただいて、ありがたく長寿を保ってゆく事ができるのであります。
 陽気になって、それから進んで「活きものを捉(つかま)える」-「天地生々の霊気を自得(つかまえ)る」という尊き場合に到る事については、また別に項を改めて説きたいと思いますが、真に陽気になれば、そんな高大な境地にも到達し得られるのであります。


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