◎『我を離れよ』
(一)「我」とは……
「我を離れる」という語は、お道づれの人々が始終口にしているところでありますが、さて、その実行のむつかしい事はもちろん、その真の意義さえもなかなかわかりにくい事であります。
第一、「我」とは何ぞやと言えば、それが既に大問題であります。
「われ」とは、単に言葉の解釈をすれば、「自分」という事です。少しむつかしく言えば「自我」と いうものでしょう。
が、「自分」というのは「からだ」の事か、「心」の事か?」一「からだ」と「心」とは二つか、 一つか、どういふ関係を成しておるものか?
「自我」というのは、「心」を主にいうとして、それそもそもどこにあるのか? ― などと追及して いけば際限もなくむつかしくなります。
で、ここでは単に、「自分」とか、または「自我」としておいて、さて、それを離れるとはどうする 事か?ーとなると、これは、むつかしい上にもむつかしい問題ですが、ただ常識的に、見やすく説明する事にしましょう。
(二)「我を離れる」とは……
「我が身」―「我が命」ー「我が利益」ー「我が名誉」……
およそこれらのものほど「我」にとって、「自分」にとって、切実、切要なものはありますまい。 ― 実際、これらのものなくては「我」というもの、「自分 」というものも成り立たない、なくなってしまうとも言うべきです。
しかるに、よく考えて見るとこの―「我が」という言葉を上に冠しておる、「我が身」とか「我が生命(いのち)」とか「我が利益」とか、「我が名誉」とかいうものほど、「我」を苦しめ悩まし、痛めつけているものはない。
― ここに、大きな矛盾があります。 その厄介な、そのおそるべき矛盾の解決、徹底的解決として、上記の「我が身」、「私が生命」、「我が利益」、「我が名誉」、とかいう様なものを捨てることが提唱され、力説される。― いや、単に捨てると言ったのでは、わかりにくく、誤解を生じやすい。そういうものに拘(かかわ)る心、囚われる心、執着するその心を捨てる、という意味であります。
― 簡単に言えば、それがすなわち「我を離れる」という事なのです。
誠に、人生の根本的矛盾の徹底的解決でありますが、本来離るべからざるものを離れようというのですから、どうも至難な事であります。
川柳に、―
「極無理な意見。魂入れ変えろ」
というのがあります。人にいけんをするのに、「魂を入れかえて」云々と申しますが、魂の入れ換えなどできるものではないはずと、例の川柳式理屈をこねたところに、ユーモアがあるわけですが、その「魂の入れ換え」以上に無理な事が、「我を離れる」事だとも言えましょう。
「我」が「我」を離れる。― これは一見如何にも無理であります。いや、実行上至極無理であります。
(三)「利欲を 」離れる
しかし、だんだん、修行をすれば、できない事はありません。
よく「名利」と並べて言われる、その「名」と「利」、すなわち「名誉」と「利益」― これはいかなる人も有しておる強い欲望で、離れがたないものではありますが、これでも人によってそれに執着する程度がだいぶ違います。あるいは天性から、あるいは修行から、恬淡(てんたん)なあっさりしたのもあれば、しつこい濃厚なのもあります。
ですから、だんだんその欲望を少なくし、薄くし、あっさりしたものにする様につとめれば、二年、三年、五年十年と修養努力の結果、前とはずっと変わった状態に進む事ができます。
第一、名とか利とか、一見 好ましく、望ましきそのものが、常日頃どんなに自分を苦めているか!?と、よく考えて見ますれば、これはどうしても一日も早くその欲望から、そのおそろしいわなから抜け出ようと努めねばならぬわけです。
まず「利」について申しますと、「利」―(金銀財宝といった類の、物質的利益)―といふものも、 どこまで貪っても際限もない事で、しかも、求めた「利」が決して真に我々を楽しくしてくれるものではありません。― 此事は大抵の人が皆、実体験上、よく知っている事であります。
それにいかにあせり、いかに努力しても、天運というものもあって、―その金銀財宝を得るということも、なかなか思う様にゆくものではありません。
古人も「死生、命あり、富貴、天にあり」と申しました。その天命の存する所をよくよく味わわなければなりませぬ。
(四)「名誉欲」を離れる
一方の「名」の方、すなわち名誉という事も、無理にこれをおそれ嫌うにもあたりませぬが、世間の名誉というもの位たよりない、しかも、つまらぬものはありませぬ。
えらい褒めているかと思えば、ちょっとした事で、はなはだしきは単なる誤解や風評で、打って変わって悪くいう。そんなものに何の価値がありますか?
フランスのユーゴーという文豪は「世間の名誉というものは二銭銅貨はどの価値しかない」と言っております。まあ、そんなものでしょう。―そのくせ名誉には、いわゆる「名誉税」という重い嫌な賦課があらゆる方面から負わされます。
それにまた、名誉というものは、こちらから強いてあせり求むれば求むるほど、逃げていくものです。それはそうでしょう。徒に自分の名誉ばかり求めているものほど、他の目にさもしく、あさましく見えるものはありませぬ。そんな人が、さげすまれ、疎んぜられるのは当然です。
そこで、真のえらい人は、世間の毀誉褒貶(きよほうへん)にかかわらず、誠一つで、自分の心に問うていいと信じずる所を、どんどん実行してまいります。―西郷南洲も、我が教祖様も共に「天を相手にして、人を相手にすな「と教えていられますが、皆、世間の毀誉の外(ほか)に超然として誠をつとめよとの主旨であります。
ところが、妙なもので、そういう高潔な態度の人、その名誉を求めぬ人にいつとなく、大きな名誉が やって来ます。
(五)欲を大きくするのも一つの方法
さて、名誉の欲望、名誉のきずなから逃れる方法は、まず今、申しました、名誉のあてのない事、案外つまらぬものである事、厄介なものである事、しかも、これは求むれば求むるほどむこうへ逃げて 行くものである事を悟るにありますが、今一つ、逆にだんだん名誉心を大きくし、高くするという方法もありましょう。
例えば、衆議院議員という名誉を求める人には、もはやそれより遥かに以下と思はるる(実際は決してそうでないのですが、まあ、世間的にはそう思われています)町村会議長という肩書きや名誉などは、ふりむかぬ様になります。すなわち、その執着がとれます。―これは、ほんのわかりよき一例です。
しかし、この名誉心を高くし大きくするということは、中途半端では役に立ちません。「大臣病」患者も、そのさもしさ、そのバカらしさは「村長病」(?)「小会社重役病」(?)患者となんら選ぶところはありません。今いいました、衆議院議員になるための競争に心身を苦しめるのも、町村会議員になる苦労も結局は同じ事です。
名誉心をずっと高大にして名誉心の悩みを解除すると言いますのは、「世間的の一切の名誉」を求めぬ事に、「真の名誉」を感する事を申すのであります。―世間の人は、いろいろの名誉を求めて齷齪(あくせく)としているが、俺は、そんなつまらぬものを求めぬぞ、貪らぬぞ、そんなつまらぬ真似はせぬぞ!という事を、自分の真の尊き誉(ほまれ)とする事であります。
ここまで行くと、名誉心は名誉心でも、すっかり趣きの変わった、いや、世間一般のとは全然反対のものともなります。
が、― これでも、自分の誉という事を思い「俺は……」と感じている点に、まだまだ不徹底なところがありまして、真に「我を離れ」たものではありません。ただ世間的名誉に悩む心情から脱却する一つの方法であります。
(六) 「生の執着」を離れる
以上、世に最も普遍的で、日々多くの人々を苦しめている、名利の二つについて申したのでありますが、生命の執着、いわゆる死生の悩みもなかなか離れがたいむつかしいものであります。―実はこの方が、「名利」よりも、もっと根本的なものであります。
長寿の望ましいことであり、また実際によき事であるのは、名利等とは趣きを異にしますが、それでも、古人が「命長ければ、辱め多し」と申しています通り、ヨボヨボの老境にあっていたずらに長く生きるという事も、そう楽しい事でも、感心したことでもありますまい。
前に申しました「死生、命(めい)あり」という事も、生き通しの道から言えば一応異議のあるところですが、教祖様も「万事天命」とも仰せられ、「生も死も天地になれば云々」ともお諭しになっております。
飽くまで生を求めても、時にまた免れがたき天命なるものもありましょう。その点も考えなければなりませぬ。
それに、「事を取らば得べからず」という御教語もあり、また「生(せい)せんとするものは死し、死せんとするものは生す」と剣道の極意の語を引いてみ教えになってもいます。
実際、生に執着し、死生に悩むの余り、かえって、生を損し、寿を縮めるのです。「生も死も天地なれば少しも苦になること御座なく……」の境地に於いて、真の長寿、真の生き通しの楽しみを楽しみ得るのであります。
「有無の山生死(しょうじ)の海を超えぬればここぞ安楽世界なるらん」
その絶対安楽の境地でなければ、望ましき長寿も望まれず、生き甲斐ある生は楽しめないのであります。― 一旦「生死の海」を越えて、初めて意義ある真の生を得るのです。
(七) 一切の迷執を去る
我々の一番離れがたき執着たる名利または生命の執着について、それを離脱する方法としての心の持ちかたを、今簡単に申した次第でありますが、これを要約しますれば、それらが、実際求めて得られるものでなく、かえって、強いて求むれば求むるほど逃げていくものであり、しかも、よく考えてみれば、生命の方はまず別として、世間押し通りの名誉とか、利益とかいうものは、案外つまらぬものであり、決して人を真に幸福ならしむるものでない事を悟るのが、第一簡要な方法である、というのであります。
つまらんと言えば、― 生命の方はまず別として、と申しましたが、これとても、尊いものながらも、是非どうでもこの肉体の生命を長く存続せしめようと、それのみに努めて、それが執着となりますると、その生命は甚だつまらぬものとなります。
執着を離れて活発に生き通してこそ、真に生命の尊さもあるのです。― この点もちょっと前節に申しました事です。
そこで、名利や生命に関する根本的のものが取り去り得れば、他の種々の執着― 酒色(しゅしょく)の惑溺(わくでき)、いろんな趣味娯楽の迷執(めいしゅう)などは、比較的たやすく離れ得る事ができます。そして、惑溺、迷執の域を超脱(ちょうだつ)して、心静かに対する時、すべての事物は、真に尊くこれを楽しみ得るのであります。
「小子近頃の執業(しゅげふ)口は、何事へも兎角物に寄らず楽む所を相務め申候。しかし向ふ物を外(のぞ)くには御座なく、たとへば、鏡に影をうつすが如く、のけば少しも跡なきが如く…」― (339号)
とありますように、「物に寄らず楽む」ー「鏡に影をうつすが如く、のけば少しも跡なきが如く…」となりますれば、物を楽しんで物に囚われず、よく楽しみつつ、しかも溺るる事なく、誠に立派な事で、これは我を離れたところ、我なきところ、― 「離我」、「無我」の境に到達した人にして、初めて行い得る事であります。
(八) 自我の拡大
さて名利の執着や、娯楽の迷執やを離脱するという事から、一歩進んで、全的に、はた根本的に 「我」そのものを離れるのはどうかと申しまするに、― これにもまず一つの、第二義的ではあり ますが、面白い方法、よき思いつきがあります。
それは、さきにも名誉の事について言いました特殊の方法と同じ様に、「我」を段々大きくする、長大 するといい方法なのです。
極端に「我」強い人、「我」の張り切っている人は、ただ我あるを知って、我が妻子の事すら思わぬ様なもあります。妻子も我が用をなすべきものとして勝手に利用する事は知っていますが、これにして真心をもって尽くすという様な事は全部しないのであります。
ところが、かくの如き人の「我」は、強い様でもその実極めて「小さい」我です。― すなわち五尺のからだ唯だ一つの「我」です。
しかるに、今、他人の事は毫(すじ)も思わないが、妻の事だけはさすがに「我が妻」として「私に関するもの」、「我の一部」として、これを我が身の如く愛し思うとしますれば、その人の「我」の中には 既に二つの人間が包容されていますので、その「我」たるや、前(ぜん)の人の場合よりは二倍に拡大されたる「我」であります。
もし数人の子、更に親なり、兄弟なり、幾人かの家族を「我が子」、「我が家族」として、切にこれを愛し思うとしますれば、その「人の我」は、早や、五人、七人、あるいは十人からの人間を内に包容しているずっと大きな「我」となります。
単に「我が身」だけの「我」が、かくて、「我が妻」、「我が子」、「我が家」を内に包み容れた、 大きな「我」に拡大されていきます。
そしてそれと反比例に、純利己的な、純主我的な、悪い「我」、醜き「我」は少くなりつつあります。
(九)人類愛―宇宙愛
その方法、その考えかたでだんだん「我」と大きくしますると、隣家の人々を「我が隣人」とし て「我」の中に容れ、村中の人を「我が村民」とし、同一郡内の人々を、「我が郡民」とし、果ては 日本国民全体を、「我が国民」として、深くこれを思い、深くこれを愛し、これがために献身的努力を惜ま ざるに至ります。そうなりますれば、その人の「我」は、一億万民と一体の「我」で、やはり「我」には相違ないが、そこに到れば、もはや「我」なきと同様で、国家の隆昌のため、全国民の幸福のためには、いつでも我が身命を献け得る「我」であります。
もし、更に自我の拡大を進めて、全世界、全人類に及ぼし、いわゆる「人類愛」に燃ゆる底(てい)の人となりますれば、いよいよ「無我」に近き聖境に入る事となりましょう。
「聖人の愛は禽獣に及ぶ」という語もあります。我らと同じ生き物として、動物を愛護し、更に植物にも及び、一切の事物に及び、「人類愛」が「宇宙愛」とも称せられるべきものにまで拡大されますれば、その人の「我」は「自我」は、宇宙大の大きさを有するもので、その「我」、その「自我」は、全く「無我」と同一の意義となります。
「一切 天照皇太神に限り、我物(わがもの)と申すもの少しも御座なく候。其の 大神の御心が我が本心と疑い離れ候へば、有がたうて有がたうてなりませぬ」―(364号)
と、教祖神はお喜びになっていられますが、宇宙大の心、「宇宙一体」の心には、我が物、他の物の別なく、従って無我なのであります。
(十)自我の高揚と無我
我が身が、「我がもの」なるが故に、これを愛するためには、どんな辛苦にも耐え得ることは、誰にもなし得る事であります。
進んで、妻や子は、ほかならぬ「我が妻子」なるが故にこれを愛して、非常な苦心もし、祭力もし、種々に犠牲を払うことは、世間一般の事です。
それは、宗教的にはもちろん、道徳的にもたいした価値もない事ですが、もし、その我れを愛し、 我がものを愛する心をずっと拡充し、拡大して「我が国民」、「我が同胞」として多数の人々あるいは全人類を切実に愛念し、更に広く生物に及び、あらゆる事物に及ぶ事もできない事はないはずです。― しかも、そうなれば、それは、前節に申しました様に全然「我を離れ」きった境地、「我無き」境地 と一致します。同一になります。
「我」の主たる「我」そのもの、「自我」そのものを離れることは、最初に申しました様に困難でもあり、無理の様でもありますが、「我」をだんだん大きくし、強くし(良き意味に於いて)、 高くし、立派にするという事には、無理はありません、当然そうすべきであって、しかも、その結果は、離るべきの「我」、小さな「我」を離れ去った事となります。「離我」の要法として、この事を提唱するゆえんであります。
(十一)真我―天我
全世界、全人類と一つとなった「我」、天地万物と一如一体の「我」は、― 西洋の倫理学者が「真我」、「自己」を発揮することを道徳の根源と主張しまする、その「真我」、その「真自己」 でありまして、これは決して離るべきものでも、捨つるべきものでもなく、どこまでも発揮すべきものであり、「生かす」べきものであります。いわゆる「天地一体の活きもの」であります。「御一体の御(おん)いきもの」であります。
御書簡に
「我れまるで無くなれば、天地のむすびし心の生きもの始めて目ざめ、夢のさむる如くなり― 」(156号)
とあります。
「妄我」、「小我」を離れ去り、捨て去った時に「天地の結び」なせし御分心なるその「心のいきもの」が、「始めて目ざめ」来り、覚醒し来って従前とはすっかり違った、あたかも「夢のさめたる如き」 境地が開けるとの御教えであります。
妄我、小我におさえられていた真我は、「真自己」、あるいは「神我」、「天我」が、台頭し来たり、覚醒し来たるのです。
前々に話しました所は、すなわち、ー「小我」を段々大きくしていけば、逆にその「小我」が無くなり、 結局「我れまるで無くなる」の境地に達して、「真我」発揮の場合となる所を説いたのであります。
(十二)第一義的無我の境地
色々のが方面から、色々に申してまいりましたが、それは多分に常識的な、第二義的なものでありました。
尊き大道の、第一義的なる離我の境地に入るのは、―我々 本心や、本つ心が、天地の本つ御心と元来御一体のものであり、畏れながら大天地に満ちわたらせ給うて、私照(ししょう)なく、偏愛なく、天地丸いかしに生かし給うその大御心と一つの、無我の活き物たる事を十二分に自覚するにあります。
前に引きました、「……其の大神の御心が我が心と疑いはなれ候へば、有がたうて有がたうてなりませぬ 」という、あの御文意をよくよく味わうべきであります。
本来「無我」であった「無我」たるべき本つ心が、その本来の姿に立ちかえるのが「我を離れ」る事なのであります。―根本的の自覚さえ確立すればそれは必ずできるはずです。
これは、無理な事でも何でもなく単に当然の事であります。― 初めに一応これを無理な事の様に申しましたのは、「真我」、「妄我」の区別も明らかにせず、だだ常識的に我を離れるという事について漠然と申したまでであります。
(十三)「天地一誠」の場
さらに申します、ー教祖神が端的にお示しになりました離我の根本的第一義的なる所は、
「身も我れも心も捨てて天地の
たつた一つの誠ばかりに」
のお歌の場であります。
我が身に関する一切の事柄、病気の事も、生命その事すらも思い煩うことなく、我の名誉も屈辱も、利益も損失も、すべてこれを念とすることなく、つまらぬ心のはからいを一切祓い去り捨て去っ た境地に立てば、我々は初めて、全く我なく、天地にただ一つの誠と一体になって、よく天地と共に生き通すことが出来ます。
しかして、逆に「天地のたつた一つの誠ばかりに」になり切った所に到りますれば―そこに到達し得れば、心に煩わしき慮りなく、雑念なく、妄念なく、我と我が身に煩わさるる事なく、全く我を捨て、我れを離れておるのであります。
(十四)常祓
右の如く、妄念なく、雑念なく、何等心に煩うところなく、全く我を離れて、姿勢無我の境に入るために、教祖様は、お懇ろに「常祓(じょうはらい)」の修行をお示しくだされ、切に之をお奨めになりました。
常祓とは時々刻々の祓いです。― 四六時中絶えず妄念雑念を払い去るの祓いです。
「一口に申せば常祓と申す事を御忘れなされず、是を生けて遣ひ申候へば、外(ほか)に道は御座なくと存じ奉り候。ねてもさめても御心のはらひ一筋に御座候。……」(第6号)
とあります。そして、元来、彼の日月(じつげつ)一体の人の事なれば、常祓の功によって「我なき所に到り候也。」ー 我なきは誠の人(日月一体の人)なり」とお示しです。
XXXX XXXX
何分、我を離れる事は、道修行の根底をなすものでありますから、この御教語についてやや詳しく 説いた次第であります。
至難の事ではありますが、日々怠らず常祓の修行いそしみ励みて、離我の御教えを全うしたいも のであります。
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