5. 天のおあてがいを大切につとめよ


◎『天のおあてがいを大切につとめよ』

(一)「おあてがい」とは……
 「おあてがい」とは、一口に言えば「天分」という様な意味であります。個々の人の受けておる「使命」、「職分」と思うしてもよろしいと思います。
 さて、「おあてがい」ーというこの語に、従来よく「お擬作」という文字が使われていますが、これは少し意義が違うと思います。
 強いて漢字を用うれば、「宛行」の二字でしょう。―無論、それは正式の漢字の塾とではなくて、日本的の使用法なのです。
―天からその人に「宛てがわれておる事」、「宛て行われている事」―それが「天のおあてがい」なのです。

(二)個性の尊重
 「個性」を尊重するという事は、近来ではよく言われておる事で、教育上にも、一般的な、画一的な教え方は非なりとして、「個性」を伸ばす、「個性」を十分に発達せしむる事が、真の良き教育法なりとされています。
ーそれも、「おあてがい」を大切にする事の一つであります。
 文芸でも、近世の上乗のな作品では、善悪、忠邪、剛柔等々の類型を描かずして、善は善、悪は悪なりに、それぞれ違うところ、異なるところのある、その個性を描きわける事を主にします。そうでなければ、 生きた人の描写にになりません。
― これも、教祖様の御教えの御主旨が、進歩した文芸作品なり、また、その評論の上に行われきたったものと言うべきでしょう。

(三)「天は不揃いなり」
 他の御教語に「天は不揃ひなり」とありますが、それとこれとは、相関連しております。
 誠に「天は不ぞろひなり」で、― 実際、天地自然の相は、高低、大小、方円、善悪、賢愚等々の大きな区別はもちろん、その中にも皆それぞれの等差あり、それぞれの質なり、量なりの相違がありまして、千差万別、一つ一つに相異なっております。
 従って、個々の物、個々の人に、それぞれ異なる使命があり、職分がありますから、それを大事にし、それを大切につとめてまいらねばならぬのです。
「人心の異る尚ほその面の異るが如し」と古人も申しております。― 一つ顔の人間は断じてありません。いかによく似た、瓜二つという様な双生児でも、近く並べて熟視しますると、大いに違っております。
 それもそうでしょう、同じ人のその同じ顔で、ちょっと見ると、右側と左側と全く同じ様な眼なり耳なりが並んでおり、鼻でも口でもまん中から二つに割れば、大きさも格好も全然同じ様であって、しかもその実は、どんな整った顔でも、左右の両側が、だいぶ違っているのです。
ー たしかに、天は「同一」を忌まるるようであります。

(四)厳然たる天命
 その顔が相異なる様に、人々の心が違っておるのです。
 五人、七人と子供を持った親なら、皆、同じ我が子の、その気質性格の相違に驚かぬ人はありますまい。よくもよくも、こんなにちがうものかな、と思いほど異るのがあります。同胞の兄弟にしてなお且つ然り、いわんや他人に於てをやです。ましていわんや、他民族、他闘国に於いてをやでしょう。
 人間などと違って、無限の想像力に富ませ給う天は、― 神は、無限に相異なる物を、そして、特に相異る人を創造(つく)り給うのであります。 
 そして、各々相異なるその天賦の性能気質に従って、それぞれにちがった仕事をし、ちがった職分を果たし、ちがった使命を成し遂げ、ちがった本分を完うして、いよいよこの世の微妙極まり、絢爛極まる複雑美を無限に発展せしめいく事を楽しんでおらるるのであります。
 だから、人々の「天のおあてがい」は、その人々に対する厳然たる「天命」であります。天の「斯くあれかし」とおごそかに命じ給うところ、誠に「絶対命令」であります。
 だから、これに従うまいとしても、結局、いつか、どこかで何かのかたちで、これに従わざるを得ないのであります。
 しからば、これを大切にし、大切につとめ行う事は、誠に当然の事で、さうしなければ明かに正当なる「天命」に背くのであります。ー いや、結局は背き得ない天命に強いて背かんとして、愚かにも無用の苦労を重ねているのであります。

(五)大小それぞれの天分
 「政治家」たるの「おあてがい」もあれば、「学者」たるべき「おあてがい」もあります。農業に適し、商業に適し、工人に適し、あるいは「創業」に適し、あるいは「守成」に適し、皆それぞれに適切なる使命、すなわち「おあてがい」を頂戴しております。
 各々それを後生大事と勤めればいいのであります。さすれば、その人も安楽にして成功し、その家も幸せを得、国家も多幸なのであります。
 「政治家」に適するものの中でも、大政治家の分あり、中政治家(?)小政治家(?)の分あり、かくて大臣もあれば、属僚もあり、首領もあれば陣笠もあり、同じ学者になっても大学者ばかりにはなれぬ、中小学者が多々あって、各々その分に従った研究なり、教育ないrをして、自他共に幸を得るのです。
 もし、その分を越えんとすれば、自らの無用の苦労と、失敗と、没落の不幸の上に、それだけ家庭も、国家も損失を蒙るのです。
赤城高弟の歌に
 「鶴は鶴雁は雁なり鳩雀
    みなめいめいの羽根で飛ぶなり」
とあります。
ー まことにその通りであります。

(六)大鵬と小鳩
 鳥と言えば、荘子が面白いことを書いています。―
 大鵬という、その背の大きさ幾千里とも知れぬ大きな鳥が、北洋から南洋に移るのに水を撃って波を動かす事三千里に及び、高く上がる事九万里、一挙に六ヶ月間飛びつづけて初めて憩うという大規模な飛翔 ― 飛び方を成す。しかるに、それをなんどバカらしい大げさな事をするもかと、蜩(ひぐらし)や小鳩の類が嘲笑する事を書いているのであります。
 彼は彼、これはこれ、― 高きも低きも、遠きも近きも、飛ぶは飛ぶのです。もし分に安んずるのならば、否、我が分を正しく守れば、その用を成し、はたその楽しみを受くるに於いて少しも相違はないのであります。

(七)相互の使命尊重
 鶴の翼は大きく立派でありますが、雀の小さなからだにそれをつけたのでは、何の用をもなしません。それは、あたかも、鶴の大きな胴体に雀の小さな羽根をつけたのと同様でしょう。
 人々の「おあてがい」は、その人々にとって、何より適切な、かつ正当なものであります。何より尊き天命であります。これを大切に尊びまつり、畏みまつりて、懸命にこれを勤めおおせなければなりません。
 他のどんなに立派に見える「おあてがい」も、自分にとっては、畢竟「無用の長物」であり、「荷厄介」であり、「危害」でさえもあります。
 と言って、また、他の「おあてがい」を、その大小高低の如何(いかん)に拘(かか)らず、侮ったり、非難しては なりませぬ。ー 自分の「おあてがい」が、自分に尊貴なのと同じく、他の「おあてがい」は、その人にとって何より貴重なものであります。大鵬が蜩(ちょう)や鷽鳩(がくきゅう)の小天分を侮るも間違いなれば、蜩や鷽鳩が、鵬のなすところを疎大なり、迂遠なりと嘲るのも不都合であります。
 自分で自分の「おあてがい」を尊重すると共に、他のそれをも尊重して、相互の「おあてがい」を尊重せべばなりませぬ。
ー そこに「人間礼賛」の世、「祈り合い」、「拝み合い」の天国、高天原が出現します。

(八)各自の分を尽くす御奉公
 大きな棟木や梁や、また、立派な大黒柱、床柱の様なものだけでは、家はできません。小さな椽(たるき)や、あるいは壁の中に塗りこめられる壁骨竹(こまひだけ)も必要であります。一寸釘、二寸釘の小さな金物も是非なければなりませぬ。
 国家、社会には、実に千万無量の用材がなければならぬのです。ー さればこそ、天は変化無量の必要に応じて、無量の異なる材をお造りになっているのであります。
ー 一見して、仕事に大小の相違があるようですが、至誠もって各々その本分を尽くし、使命を果すことの神聖さに於いては、いずれも同一なのです。
 そこで、その各々の異なる「おあてがい」を尊んで、これを「大切につとめる」ならば、安楽に生活もでき、そして、各々立派な天業を成し遂げつつ、国家社会に尊き御奉公をする事になるのであります。「天のおあてがいを大切につとめよ」― 思えば思う程ありがたく、味わえば味わうほど、その旨深き御教語でありまする。
 実に、人々がこの一語を守る事によって、個人個人も福分を得、そして、国家社会が無事太平にして隆盛を来たすのであります


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