◎『善人の罪を作るな』
(一)奇抜な一語
「罪」というものは、もちろん悪人のする業で「善人の罪」―「善人が為す罪」―という事は、ないはずであります。
然るに、我が 教祖様は
「善人の罪を作るな」とお戒めになりました。
一体、これはどういう意味なのでしょうか?
ここに「善人」とあるのは、通俗的の意味で、― 所謂、人の好い、やさしい、おとなしい、あるいは、決して悪い事はせぬ、せぬというよりも、できぬといった類の人、とかく気の弱い質の人、そういう種類の人々を指して仰ったものと解すべきだと思います。
いや、もっと高尚な意味の善人、ー相当、学問もあり、見識もあり、理想も高くて、良心も鋭く 従って、悪い事、間違った事は、断じせぬ、どこまでも正しい人、しかし、神経質で、ともすれば、ものを考え過ぎ、道理にこだわりぎて、自ら苦しむという風の人、― そういう種類の人々をも含めてよいと思います。
(二)一種特別な罪
そこで「善人」というのをそういう意義として、然らばなぜ、そんな人が罪を作るか?
その種の、決してわるい事をせぬ人たち、あるいは、わるい事のできぬ、わるい事をようせぬと言ってもいい人々が、なぜ、罪を作るか?
一見、これは、大いに矛盾している様ですが、その類の人は、普通の「罪」は作らないが、一種特別な罪、― 「善人の罪」という「罪」を作る。絶えず、その変わった「罪」を作りがちなのです。
そこで、教祖様が、それをお戒めになったのです。
(四)「御分心を傷める」罪
しからば、具体的に申して、一体その罪とは、どんな罪かと言いますると、それは、一口に言えば「心を傷める」罪であります。
自分で、自分の心を傷めるという事は、その人限りの事であり、その人が、好んで、ーまさか好んででもありますまいが、ー自分で苦しんでいるだけの事ですから、何も「罪」にはならないではないかという説も起こりましょうが、自分の心が、実は、決して「自分の心」でないから「罪」となるのです。
「心」の尊いものである事は誰しもよく知っているところですが、その尊い、不可思議な「心」なるものは一体どこから来るか?
我れ自ら、我が「心」を作る能(あた)わざるはもちろん、父母またこれを作る能はず、さらばと言って、天地 の間に、自然とおのずからに湧き出ずるものでもない。そんなはずはない。……
この尊貴な、この霊妙不可思議な「心」といふものは、天地一体の大きな「心」、ー無始無終に存在せる天地の「心」、宇宙の「太霊」ーから来る。簡明端的に申しますれば、天地の元つ 大御神様の「御心」から顕れ出でたもの、生じ来ったもの、すなわち 大御神様の「御分心」であり、「御分霊(ごぶんれい)」であり、「御分霊(おんわけみたま)」であります。
で、「己が 心」を傷めるのは、その実、もったいなくも「大御神様の御分心」を傷めるのですから、そ こに罪、いとも大きな罪があるわけなのです。
(五) 天地の親様への大不幸
「此の心おのが心と思ひしに
心を知らぬ迷ひなりけり」
と、河上先生のお歌にあります。
「我が心」ではない「おのが心」ではない。畏れ多くも、もったいなくも、 大御神様から頂戴している御分霊(おんわけみたま)である。―
それをお粗末にしてはならぬ。いわんや、それを傷めまつり、苦しめ奉るに於いては、その罪たるや 実にに重大であります。
主殺し、親殺しの罪にもまさる大罪、とまで、教祖様は仰せになったと聞きます。 なんとなれば、大天地の親様、大天地の太主宰神の、その御心を苦しめまつるからであります。
まことに、大不孝の罪、免るべくもありませぬ。
(六)尊い御逸話
ここに思い出ずるは、教祖様の有名なる御逸話であります。
備前の赤坂郡(あかさかごおり)(今、赤磐郡)の河本という所へ御布教におこしの途中、― 砂川 という河をお渡りになる時、小さな一枚板の橋が、折柄の出水でひたひたになっていたのが、中ほどで、グラッと動きましたので、その刹那、教祖様も思わず、ハッとなさったのですが、すると、向うへ渡りになるやただちにお袴のまま、地上に座して、― お心を動かしまつり、お驚かしまつった事を、大御神様に、いとも鄭重におことわりになったそうであります。
(七) 無上の大罪
橋がグラづいた時に、思わずハッとなされたという事は、誠に当然の事でもあり、それもほんの瞬間の心の動きで、別に心を苦しめるなどというほどの事ではありませぬ。
それにもかかわらず、すぐ改まっておことわりができたと承っては、我々は、一体どうしたらいいのでしょう?
日々どんなにお心を苦しめてある事か? ― 腹を立てたり、物事を苦にしたり、びっくりしたり、おどおどしたり、思わず、お心さまを苦しめ通しに苦しめ、騒がしとおりに騒がしてしまっているのです。―甚だしきに至っては幾夜も寝ずに心配したり、また、何年と一つ事に腹を立てたり、人を怨んだりして、われと御心を悩ましまつっています。
誠に畏れ入ったことであります。
「姿なき心を活けてつかひなば
天が下にぞ満渡るらん」
と、御歌にあります。― その大きな、尊き、御いきものの御心さまを、クヨクヨと思い煩ったり、女々しく泣いたり、悲しんだりして、畏れ多くも狭い、むさくるしい座敷牢の中に幽閉し奉る様なことばかりしているのであります。
真に、大きな、そらおそろしい罪を犯している次第です。教祖様が、道をおあるきになる時には たいてい御手で胸元を抱える様にしておいでになっていたと申します。― 心の動かぬ様に、じつとお護りになっていたのです。
― お瀬踏みのほど、よくよく味わいて、遵いまつるべきであります。
お心をいためる事が罪である主旨は、以上でほぼ明らかと思いますが、然らば、それがなぜ「善人の罪」かと申しまするに、―
先にも説明しました様に、「善人」なるものは、とかく気が弱く、心が小さく、神経質で、心配 したり、おびおびするという欠点を多量に持っておりまするから「心を痛めるの罪」は、悪党などといわれるものよりも、かえって、ずっと多く作る事になるのです。それで、これを「善人の罪」という次第なのです。
どうも、所謂「善人」という種類の人は、何か言ったり、したりしても、すぐ、人が悪く思いはしないか、わるく言いはしないか、怒りはしないかと、小心翼翼といいますか、戦戦兢兢と申しま すか、おっかなびっくりで、絶えず心配ばかりします。― とかく、過ぎ去った事まで、いつまでもクヨクヨと「持ち越しの苦労」をし、先のさきまで、つまらぬ「取り越しの苦労」をし、悲嘆憂愁絶え間なしと言う風の事が、多いのであります。
そうして、尊き御わけみたまをいため通し、苦しめ通しであります。
― 誠に「善人の罪」とは、よく仰せになったものであります。
さる人の歌に
「善人と人と褒むれど御心をいためる人は天の罪人」
(九)出世の妨げ
世間では、よく言うことです。―
「あの人は、あんなによい人なのに、どうしてああ不幸せなんでしょう?」
と。……これは、当然の不審ですが、それには、いろいろの複雑な理由はあるとしても、第一は、善人の罪を犯しているからです。天地大元の親様へ大不孝の罪を犯しているからです。
善人、善人と言っても、罪を犯せば、もはや真の「善人」ではありません。やはり一種の罪人であり、悪人です。それでは天のお恵みを十分にいただけぬのも無理からぬことで、不幸せなのも、むしろ当然と言わなければなりませぬ。
それに、心を痛めるの罪とまではゆかなくても、善人型の人にはとかく因循とか、ひっこみ思案の人が多く、どうも陰気がつきまといがちです。
ところが、その「陰気」というものは、天地の陽気元気の根源たる生き通しの御神、生々の大御神の最も嫌い給うところであります。― 従って、そのお嫌いになるところを行うのは、それも一つの罪とも言えましょう。とにかく、それだけでも、その陰気だけでも立身出世の大の妨げであります。
「天照御神(あまてるおんかみ)への御信心は少しも少しも陰気嫌ひなり」
と、教祖様は御教えになっており、また
「たとえ、何ほど道を守り候とも、心陰気に相成候はば出世相成申し難く候。何卒春の気に相成り候て、御執業成さるべく候」
「一心満る時は邪の入る所なし、さすれば、彌々(いよいよ)天照大神の分心御安泰にて、誠に爰(ここ)が例の御開運の所なり」
と、いと御ねんごろにお諭しくだされています。
― この御教旨を深く深く味わねばなりませぬ。
(十)正々堂々たれ
世間の悪、道徳上の悪、― その悪い事をしていいという道理はありません。
それは、天の自然の法則に背き、人の世の掟に違う事なので、それぞれ制裁、刑罰も免れぬ事で あります。
が、その悪人の「罪」なるものは、余儀ない事であるとして、せっかく「善人」でありながら、―絶えず、悪を行わず善を行うことに努めながら、― 思わぬ方面に、大きな罪を作っていては、誠に、お話にならぬたいへんな矛盾で、こんな引き合わぬ事はありませぬ。
どうぞ、俯仰天地に愧じぬ立派なところを行うと同時に、その上は、正々堂々、陽気に、元気に、朗らかに、生き通し、楽しみ通しの、真の信心の場に立って、心身共に十分の御かげをいただいて参りたいものであります。
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