2. あほうになれ


◎『阿房 』に成れ

 「あほう」は、一に「阿呆」とも書きます。「呆」は「おろか」「愚痴」という様な宇義がありますから同じ当て字でもその方がいいであります。が、一説に、中国の昔、国号を「秦」といった時代に、 始皇帝という王様が「阿房宮」というとてつもない、大きな贅華極まる宮殿を建てて、民の怨みを買い、それが国の滅びる一つの原因ともなったというところから、阿房宮が「愚」そのものを表す様になって「あほう」の語も出たとも申します。それなら「阿房」と書くのがいい事になりますが、これは畢竟(ひっきょう)俗説で、「阿房」も「阿呆」もいずれもあて字です。
 ―「あほう」とは「愚」という事を表す日本の俗語と知れば、それでいいので、それ以上ちょっと適当な解釈はない様であります。

(二)「あほうに成れ」とは……
 思わず、字義の解が長くなりました。実はそんなことはどうでもいいのです。
 ただ肝要な事は、みんな利口になろう。賢うなろうと願い、教育とか学問とかも皆、それ目的にやっているのに、反対に「阿房になれ」とは、どうした事か? なぜ、そんな事を 教祖様は仰せになったのか?!
ーそれが問題なのです。いささかここに解説を要するところ以です。
 一体、教祖様のお奨めになった「阿房」とは、どんな意味なのか。ただ世間に言うのと同じ意味のその「阿房」になるのがいいのか、どうか?ーそんな点に就てここに一言を費す次第であります。

(三)愚を守る
 それに先だって、古人もそれに類することを言っているかどうかと申しまするに、孔子も
「聡明叡智、之を守るに愚を以てす。」
と言ひ、又た、愚直なまでに君に忠誠を尽くした甯武子(ねいぶし)という人を讃美して「その愚や及ぶべからず」ーその「愚」なところこそ到底、及びがたき尊きところであると褒めています
  老子に至っては、盛んに「愚」を讃えて
 「衆人は皆餘(知恵が―)有り、而して我れ独り遣(わす)る、(何もかもー)が如し、我は愚人の心なるかな。……」
などと、大いに「愚」を以て任じ、そして、その「愚」を誇っています。また
「君子は成徳あれども容貌愚なるがれ若し」
とも言っています。
 古人だけではありません、近頃では、一燈園なども「学貧学愚の道場」と称し、「愚を学ぶ」という事を標榜しているほどであります。
 しかし、教祖さまの
 「阿房に成れ」
という語ほど、簡単で、しかも力がある教語は他にないと信じます。

(四)淳朴恭倹の徳
 さて。その「阿房になれ」というのは、如何なる意味かと考えまするに、これは
 第一には
 利口ぶらぬ事、知ったふりをせぬ事、出しゃばらぬ事、という風に解してよかろうと思います。
 人間は、兎角、我賢しと人に見せびらかす悪いくせのあるものです。知らぬことまで知ったふりに小理屈を言いたがるものです。況や少し知っておれば、我れこそと、その小智小身を誇らしく振り回します。誠にみっともない事ですが、どうもたいていそういう欠点を持っています。そして、何事にも我れと出しゃばって、いらぬ世話をやいたり、小言を言ったり、邪魔立てをしたり、そういう事がありがちです。
 これは、単にキザなとか、みっともないとか、うるさいとか言うだけにとどまらず、たいへん他人の感じを害し、争いを惹き起し易いもので、最も慎むべき事です。

(五)縁の下の力持ち
 次に、ー
 第二には
 諺に所謂「縁の下の力持ち」をするという様な人に成る事と解すべきかと思います。
 世間で利口なというたちの人は、決して「縁の下の力持ち」はいたしませぬ。みんなの人の目につく様な仕事しかしませぬ。割のわるい仕事は決してしませぬ。人の力、人の仕事を踏み台にして、自らの仕事を誇示し、己の功を高く世に現さねば承知しませぬ。
 ところが、そんな人間ばかりが多いから、兎角人の世に嫉みや、妬みや、野心の角突き合いや、権勢の争奪や、つまらぬ駆け引きや、策略のみが行われて、真の生きた仕事、誠の仕事がなく、いつまでたっても人生が明るくならず、清くならず、醜悪極まる状態を繰り返しているのであります。
 もし、人のいやがる仕事、きたない仕事、苦しい仕事、殊に世に知られね、且つ引き合わぬ、割の わるい仕事を自ら引き受けて、せっせと働き、しかも功は人に譲り、名は人に与えて、黙々として世に処するというような人があったとしたら、どうでしょう?!そんな人は世間並みに言えば、実におろかな人、バカな人、真に「阿房」な人ですが、ただ一人でもその種の人があれば、その周囲がたちまち明るく清らかになりましょう。その人は、人生を浄化する力を有しています。
 世の中の人の三分の一とは言いません、せめて十分の一だけ、その種の人となったら、もうしめたものです。直ちにこの世は天国になります、高天原になります。
ー「阿房になれ」!!真に尊き御教えであります。

(六)「名利」「はからい」を捨てて
 さて、
  第三には、
 小さな知恵分別を去り、打算思惑を超越して、一切名利に囚わるる事なく、すべてに人為のはからいを捨てて、ひたすら自然の天理に従い、ただただ誠一つにて活動する事であると信じます。
 その種の人は、一見愚なるが如く、実際また、世知辛きこの世にあっては、何かと損をすることでしょう。
 小利口な人、あるいは奸佞邪智(かんねいじゃち)の人から見たら、如何にもバカげて見えるでもありましょう。
 しかし、かかる人こそ、よく天下の大事を成し、いつまでも後世を利する大人物なのであります。
 西郷南洲(西郷隆盛)が、名もいらぬ、金もいらぬ、命もいらぬものは、大バカ者であるが、その大バカ者でなければ、共に民下の大事を成すに足らぬと言った言は、深く味わうべきです。
 かかる意味の阿房になることは、まことに尊いことで、しかも、それは高い深い宗教的信念なくてはできぬことであります。
 ー御教語の意味、いよいよ深長であります。

(七)太愚の境地
終りに、
 第四には
  更に一段を進めて、―もはや何一つ思うところなく、考うるところなく、拘るところなく、泥むところなく、力むところなく、すらすら、さらさらと、行く雲の如く、流るる水の如く、ただ心を天地一体と据えて、天地と共に天地の楽しみを楽しむという境地に住む事。……かかる意味合いもあると思います。
 かくの如きは「愚」とか、「阿房」とか言うべく、あまりにも高く尊きな境地ですが、世間並みの智者、学者などに比べて、どこか「愚」の一字をもって表すべき趣きの存するところがあります。古人が「太愚」と言ったのも、ややこれを彷彿せしむるところがある様です。
「今は早や後世(ごせ)のつとめもせざりけり
   阿呍(あうん)の息(あるいは「二字」)のあるにまかせて」
と言える古歌も、この境地をねらったものとみえます。
  我が時尾先生が
「今は早や何んの望(のぞみ)もなかりけり
    唯だ日と共に夜を明かすのみ」
と詠じていられるのを見ると、先生の御心境、少なくともその理想の境域を伺い知って、言い知れぬ慕わしさを感ずる次第です。
 教祖さまは
 「ただ明暮ありがたきのみにて、何を考へ申さず、ただ日々に日月と共に共に心を楽しむばかりに成さるべく候」ー(2号御書簡)―
と、御教示あそばされ、さらに御歌をもって
「楽しみも我が楽しみとおもふまじ
    ただ天地の楽しみにして」
と、御懇(ねんご)ろに、いと高き境地をお示しくだされています。
ー「阿房に成れ」という御教語をここまでに考えてまいりますと、その意義の至高至大なるに、 ひたすら打ち驚かるる事でございます。

(八)一語無限の興趣
 が、あまり高遠なところを考えますと、一般の人にとっては却って離れ過ぎて活用のない事ともなりましょう。
 そこで、極めて平易通俗な言葉をもって、簡単に「阿房に成れ」と仰せになっている御教語は、やはり通俗に、平易に、見やすく、しやすく、簡単に解釈するのがいいかと思います。
 前節に、第一、第二、第三、第四と分けて説きましたが、それは決して別々の事ではなく、その間におのずから相通ずるところあり、結局は一つ主意に帰着するのではありますが、やはりそういう区分をつけたり、何かと面倒に解説するのをやめて、
 ただ、―
「世の人がことごとく利口になろう、賢くならう、利口に賢く振舞おうとしておるのと反対に、バカと言われてよし、阿房で結構と、腹を立てたり、争ったりする事なく、すなおに、やさしくおちついて、そして安らかに暮すこと。」
という風に解してよいとも思います。
 要は、実践ですが、―とにかくこの
  「阿房に成れ」
の御教語を、じっと味わってみると、そこにおのずから、ほほえましき感じの湧いてくるのを覚えまする。―たいへん妙趣の存するお言葉であります。


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