◎『生きものを捉まえよ』
(一)独創的のお言葉
ここに「生きもの」という語は、黒住教に特有の、一つの術語(?)ともいうべきもので、実に我が教祖神の独創的のお言葉であります。
世間に「いきもの」、「生物(せいぶつ)」といふ言葉はありますが、それとこれとは、-本来は大いに関わりはあるにはあるのですが-実際使われているその意味に於ては、ほとんどどかけはなれたものであります。
で、教祖神の御在世当時-「説教の中に時々『いきもの』が飛び出すから油断なくお捉まえなさい」と仰せになったところ、さる初心の信者が-「いきものが出るという事で、気をつけておったが、ねずみの子一匹出なかった」と言ったという笑い話もあるほどで、同じ語でも、世間一般の意味とは全然ちがった意味に使われている次第です。
(二)天地生々の霊機
御教語の「いきもの」に対して、高弟(こうてい)星島先生が、「天地生々の霊機(てんちせいせいのれいき)」という語の、その「霊機」 の二字をもってこれに当てておられます。-あるいはこれを解釈されておると申してもよろしい。
「いきもの」とは、「霊機」、すなわち「霊妙の活機(かっき)」で、しかもそれは、「 生々」の「霊機」であります。大天地の万物をして息(や)まざる、その強き尊き御(おん)活用、妙作用、活機そのものであります。
換言しますれば、神さま-天地の親神さまが、万物を生々養育し給う、その尊くも不思議なる御(おん)作用、御力(みちから)が、すなわち「いきもの」であります。
(三)活機を自得す
もっとも、教祖神の御歌文に顕れておるところから申しますと、「天地」そのもの、詳しくは「天地の本体」、または、「天地の心」、「神の御心(みこころ)」、-したがって、我々人間に宿り給うている「御分心」ー
「天地と一体なる我々の心」といった意味が主となっている様でありますが、それからして、ただ今申しました様に、「光地の御作用」、その「生々の霊機」という風の意味にもなる次第で「いきものを捉(つかま)へよ」という時には、その後の方が主になっているのであります。
すなわち、生々の霊機、活発、それを捉えるのであります。
さて、「つかまえる」といふ事については、星島先生は、「自得」という語を当てておられます。それでいいと思いますが、とにかく、そのものをつかまえて我が物にする。進んで自分がそれと一つになる、そのものに成り切る、という様な強い意味があると信じます。
(四)「天地自由 」
「いきものを捉まえた人」は、すなわち出し生き通しの人であります。
「天道は生々にて、天地の道には死と申すことは更に之れなきものに御座候」
その生々の天道と一体になって、-換言すれば、天道の「生々」なるところを捉まえて、死なき天地の道、死なき天地と共に行き通すのが、真に「いきもの」を捉まえる事であります。
教祖神は、更に進んで
「いきものを捉へれば天地自由」
と仰せになったそうであります。真に活きものを捉まえたものは、天地を自由に左右することができるとの御主意であります。
儒教でも「天地に参ず」とか、「天地と参(み)つに成る」とか、「天地の化育(かいく)を助ける」とか、申しております。それは人間がその聖徳(せいとく)を発揮して、天地と相並ぶに至るということでありますが、生々の
大道の方では、もっと強く「天地自由」の働きをなすのであります。
(五)人を生かす
かく、自ら生々と生通して更に進んで、天地を動かすという様な大きな力をもって、人を生かし、 世を救う。-これが、いきものを捉まえた人の尊き働きでありますが、その生きたお手本を、まず我が教祖神に仰ぐ次第であります。
いかに多くの病人が、教祖神の御諭(みさと)しによって、あるいはおまじないによって起死回生のおかげをいただいたことか、それは到底、今から想像も及ばぬことであったのです。-現状を見ぬものには、その実際を窺い知ることができないほとであったのです。
高弟河上先生が、その事を詠ぜられた歌というのがあります。
「見ぬ人に何んと語らん富士の嶺(ね)の
天津御(み)空につづく姿を」
あるいは、一座の御(ご)説教をする間に八年間の盲目が開眼したという、あの赤木先生がお受けになったような宏大なみかげも顕われたのであります。
これこそ、最初に笑話として申しました、-説教中にいきものが飛び出したもので、さすがに赤木高弟は、すぐそれを捉まえられたのでした。
(六)一語狂刃を止む
天地を動かすといふ様な事は、かるがるしく言うべきではありませぬが、それもあり得る事なのです。
儒教などでも「至誠天地を動かす」とか、あるいは「精神一到(いっとう)何事か成らざらん」など申しますが、皆、天地を感動せしむることを言ったものであります。
それが生々の大道のいきものを捉まえたという事になると、また一段と強く尊いものが顕れることであります。
酔狂のあまり、二十余人を傷つけて、いよいよ心の狂うた松尾長三郎なる武士が、急に斬りかった時、至誠をこめた「御(ご)場所柄でござりますぞ」の一言(ごん)に、さすがの狂刃(きょうじん)もこれを下す事ができなかったという教祖神の御大徳も、畢竟、御(おん)いきものの顕われであります。御いきものの力であります。
これは、人を動かしたもので、天地を動かしたというほどではありませぬが、それでも、真性根 (まじょうね)を失った、ほとんど狂気したものを即座に感動せしめるという事は、天地を動かすに近いものがあります。
(七)天地を動かす
ところで、事実、その天地を動かし給うた御大徳が、あの有名な備前小串(こぐし)沖で風波をお鎮めになった 御(おん)場合に顕われております。
備前から四国へ御渡航の砌(みぎり)、にわかの大風で多くの船が覆ったという事ですが、教祖神のお乗り遊ばした船もいよいよ危うきに及んだ時、泰然として、
「波風をいかで鎮めむ海津神(わだつかみ)天つ日を知る人の乗りしに」
と、一首のお歌をお詠みになると、その大風がたちまちにして鎮まったごときは、明かに天地を動かしたものであります。
教祖神は「天地自由」-何事も成し得るという、その強き御自覚のほどを、
「何事も心のままに叶ふゆゑねてもさめても有りがたきかな」
と詠みになっています。
高弟赤木先生も、最もよくいきものをつかまえたおかたで、従って「雨と云へば雨、風と云へば 風」と、雨風を自由にされたという様な話が、いろいろ伝わっています。
(八)まず陽気に成れ
さて、いかにすれば、その尊きいきものが捉まえられるかと申しますると、それは「陽気に成る」 事が第一要件であります。
徹頭徹尾、陽気に成り切る-全身に陽気が充ちきり、延(ひ)いて、心が陽気そのものに成ってしまいますと、自然に、御いきものが身にも心にも溢れてまいります。それが「いきものをと捉まえ」たのです。
悲しみもなく、憂いもなく、腹も立たず、物も苦にならず、少しの屈託もなく、毫末(ごうまつ)も陰気がなく なって、天地大陽(だいよう)の気が、常に身内に満ち溢れ、生々陽剛の元気が絶えず心魂に充塞(じゅうそく)すると、自然
にいきものがつかまえられるのです。-イヤ、そうなった時が、すなわち既に「いきものを捉まえ」た のです。
そして、そのように「陽気に成る」のには、一切を天に任して我を離れてしまうことが、何より必要であります。
少しでも「我(われ)」があると、腹も立ち、物も苦になり、したがって陰気にもなります。
(九)「直」をもって養う
しかして、一切の根底は「誠」であります。至誠でなければ、真の離我任天(りがにんてん)の場合には、立ち到れず、無論天地を動かす様な活きものを捉まえる事はできませぬ。
孟子が、浩然の気を養う事を説いたところに、
「その気たるや、至大至剛、直(ちょく)を以て養うて害するなければ、すなわち天地の間に塞がる。其の気たるや、義と道に配す、是連なければ餒(う)う」と言っておりますが、浩然の気を養うには、「直」を
以てしなければならぬのであります。そして常に義と道とをもって補給しなければ餒(う)て衰えるのです。真の陽気、真の元気、-その大陽一元地元の気に即してとらるる、「いきもの」は、畢竟「誠」から養われるのであります。「誠」に根ざし、「誠」に基づくのであります。
かくて、「教えの五事」に「誠を取外すな」、「天に任せよ」、「我を離れよ」、「陽気に成れ」とあって、最後に「活きものを捉(つかま)へよ」となる、その順序もよく分かる次第であります。
(十)むすび
心の上から言えば「誠」-その真心をもってありがたく神さまを信じて安らかに天に任せ、我を離れて陽気に成る。
そして形の上からは、怠らず御陽気をいただいて下腹に納め、天地と共に気を養うというところをつとめる。
かくて、陽気に成り切るところから、いきものを捉まえるに至るのでありまして、 もちろん、天地を動かす様な極所に達するのは、短時日(たんじじつ)の能(よ)くするところではありませぬが、努めたら努めただけの効顕(こうけん)があり、
年と共に次第に高く深く進んでまいります。
どうか、せめて「いかさずとも時々刻々にころさぬやうに」してゆきたいものです。
「天地にたつた一つの活きものをけがす人こそ悪魔なりけれ」
おそろしい事です。天地のいきものをけがす悪魔に成らぬ心がけが肝心です。
元々人間は、皆、天地一体の活き物です。心がけ一つ、努力一つで、誰でも、その天地生々の霊機という「いきもの」を捉まえることができます。
時々刻々に努めて、陽気になり、いきものをつかまえて、本来の尊き活き物と成らねばなりませぬ。
そして、生き通しに生き栄えて、人をいかし、世をいかして、皇国(みくに)のために活きた尊い仕事をした いものです。
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